マリコラム「Songs & Me」

<新しく追加されたマリコラム>

※ 01~04コラムは、追加マリコラム06の後に掲載

05. セシルの週末

1989年5月にリリースした、真璃子11thシングル。
1980年にリリースされた、松任谷由実さんオリジナルアルバム「時のないホテル」に収録されているオープニングナンバーのカバーです。

真璃子にとって、はじめてのカバー曲だったのですが、何故、松任谷由実さんで「セシルの週末」を選曲したのかと、リリースした時もよく問われました。
当時は、「松任谷由実さんの曲が好きで、特に、この曲が好きなんです。」と、いつも答えていました。
勿論、それは本当のことなんだけど。
決まって言われたのは、「真璃子」のイメージと違うということ。

、、、そうですよね。
そこで思い出してもらいたい曲があります。
不良少女に憧れる少女を歌っている4thシングル「不良少女にもなれなくて」。
「セシルの週末」は、不良少女だったヒロインが愛する人と出逢い更生する曲。
全く異なったタイプのヒロインを歌っていることになります。
真璃子どうしちゃったの?と思われても仕方のないことでした。

時を経て、35周年記念アルバムに収録した想いも込めて、今なら正直に、どうして「セシルの週末」を歌うことになったのか、
真相をお話し出来るチャンスを頂けたと有難く思っています。

1989年、32年前に時計の針を戻してみましょう。

あの頃の私は、21歳になる年で、スタッフも私もアイドルから大人の歌手へ、イメージチェンジを図りたい時期に来ていました。

スタッフの戦略としては、1988年8月に「お嫁に行きたい」でお茶の間の皆さんに「真璃子」を認識していただき、同年12月には、尾崎亜美さん作曲の「届かなかったAIR MAIL」で歌手として、アーティスト色を皆さんに感じていただくようにアプローチをしていたようです。

そこで、翌年1989年リリースとなる、新曲の企画が「カバー曲」だったんです。

ちょっと、私の記憶も曖昧になっているんだけど…
ディレクターさんに「真璃子は、誰の曲を歌ってみたい?」と聞いてもらったような気もするのだけど、もう、松任谷由実さんに決定していて、選曲したのか。
どちらにしても、歌いたい曲として「セシルの週末」を挙げたのは、私でした。

イメージって、一人歩きするもの。
この曲で、優等生の「真璃子」のイメージを思い切ってぶち破りたくなったのが本当の気持ちでした。
なぜ、ぶち破りたかったかと言うと…

活動再開してのライブでも、チラッと話しているけど、メルマガでも綴っている「不良少女にもなれなくて」を歌うことになった時の私の心境、憶えていますか?
ちょっと長くなるので割愛してお話ししますが…

私は、神秘的で清楚なイメージでデビューしたけど…って、自分で言うと変な人になっちゃうけどね(笑)
実は、やんちゃだった福岡の少女時代があったんですよ。
根が真面目で精神的にも子供だった私は、「不良少女にもなれなくて」をいただいた時に、やんちゃだった私が歌っていいのだろうか?と胸中穏やかではなかった訳です。
でも、楽曲の素晴らしさに支えられて「真璃子の歌」として歌うことができた、想い出深いエピソードがあります。
でもね、それからも、いつまでも猫被ってるみたいで、やっぱり胸の奥で引っかかっていたんですよ。
創られたイメージになり切って楽しめれば、それはそれで本物になると思うんですよ。
でも、私の気持ちは、違和感が募っていました。
そんなに悩んでたなら自分の言葉でイメージを変えていけばいいじゃない!と思われるかも知れないけど、私には、そんな器量が無かったんですよ。
そこで自分なりに考えた答えは、歌にのせて伝えることだったんです。

少女時代の多感な時期、両親の別居や離婚、家庭環境の中で両親に対して、世の中の目に対して、感じていたこと、歌手に憧れて夢が叶っても、イメージに縛られてる焦りがあったことも、「セシルの週末」のヒロインを通して、私の想いを皆さんに感じてほしかった…
そして、もう一つの想いとして、「不良少女にもなれなくて」の”学校を追われて行くあの子”の明日が「セシルの週末」の”セシル”になれたらいいのにと想像したんです。

真相の結論として、
私は、「不良少女にもなれなくて」との出逢いのきっかけがなかったら「セシルの週末」は、歌っていなかったかも知れない、と言うことなんですよね。

私にとって、「不良少女にもなれなくて」と「セシルの週末」は、心の成長に大切な役割を果たしてくれた、扉を開く”鍵”でした。

歌手活動の再開をして、今こうやって昔を振り返りながら素直に皆さんにお話し出来て本当によかった。
これは、皆さんが私を見つけてくれたから出来たことです。

本当に、ありがとうございます。

06. 偶然

1990年にリリースした、14thシングルです。
日本テレビ系列のドラマ「お父さん」の主題歌でした。
父親と3人の娘の家族ドラマでカップリング曲の「静かなまなざし」は、挿入歌でした。


「偶然」「静かなまなざし」は、作詞:岩里祐穂さん、作編曲:大野雄二さん。
好きな楽曲がたくさんあったので憧れのお二人の作品を歌えることがとても嬉しかったことを憶えています。

売り上げランキング的には伸びなかったけれど、レコーディングで初めて歌った時から、私の歌声に、しっくりとくる感触を得ることが出来て、歌入れもスムーズに出来ました。この歌を歌えたことで、次作の「ほうせんか」そして「あなたの海になりたい」に繋がって行くことになったのだと思っています。

「偶然」をセルフカバーした理由は、私の中でふたつあるんです。
ひとつは、もうすぐ53歳になる真璃子でも自然体で歌える楽曲の素晴らしさです。
そして、もうひとつは”今の私の気持ち”と重なっているからなんです。

その”今の私の気持ち”とは、父への感謝の想い。

でも、あの頃、22歳だった私は、父とうまくいってなかったんですよ。
私が歌好きになって歌手になりたいと思った経緯に父の存在が大きかったことは、今までもお話しして来ました。父のことが大好きだったのに…

どんな風に、父とうまくいっていなかったかというと、たまに電話で話しても、
「何で、何も仕事ないのか?」
「もっと、テレビに出してもらえないのか?」「みんな、真璃子は、どうしたんだって言ってるぞ」とか、いつも責め立てられてばかり…

歌手としても女優としても大成してほしいと思っている父は、何で売れていないんだと快く思っていなかったんです。
親バカですよね(笑)売れるのが当たり前と思っていたわけですから…

この頃、音楽番組も減少して、私が歌う姿をテレビで観せてあげることも出来なくなっていました。
ライブもやっていない状況だったので父としては、面白くなかったんでしょうね。
ドラマやラジオの仕事は、いただいていたのですが、確かに露出は少なかったので心配してくれていたのは分かっているつもりでいたけれど、私もこれからの不安がなかったわけではありませんでした。

「色々言いたい人には言わせておけばいいじゃない!ちゃんとやってるから!」
「何にも分からないくせに、そんなに責めなくてもいいじゃない!」
と、ガチャンと電話を切ったこともありました。
父のことが嫌いになっていたんですよ。
だから、ほとんど、連絡も取らないようになっていきました。
今、思うと父に可哀そうなことをしていたな…と、切なくなります。

でも、私だって気持ちの余裕がなかった。
新曲を出しても歌を披露できる場所がなかなかない現実に、売れてない自分に、やり場のない憤りを感じていたのは確かでした。
よく、一人で泣いてたな…

毎日のように文章や詞を描くことで心の不安を埋めていくようになっていました。
一つ一つの仕事を大切に、コツコツと活動して生き延びて行きたいと思っていたんです。
タイアップもいただけて、新曲が出せるだけでも有難いことでした。

そんな心境でしたから、当時の「偶然」のレコーディングは、いつか、この歌詞の主人公のように、優しい気持ちで、父の想いを受け入れられる日が来ることを願って、歌っていたような気がします。

「偶然」のリリースに合わせて、キャンペーンで福岡に行った時だったと思うけど、妹と会って父の話しになった時に、ドラマの「お父さん」を父が観ていることを教えてくれたんですよ。
嬉しかったけど素直には喜べなかった…
妹も私と父がうまくいってないことを気にしていて「なんで、お父さんに冷たくするかな?可愛そうやん」って、妹に宥められたこともありました。
妹にも心配かけてたな、、、ダメな姉だった。
それでも意地を張ったまま月日は流れて行きました。

あの頃、父に冷たく当たっていたのは、弱音を吐きたくなかったから、、、
何とか強気を見せることでモチベーションを保っていました。
私は、仕事の愚痴や心配事を父にも妹にも話せないでいたんですよ。
自分のことしか考えられない勝手な娘で姉だった。

それから、約4年後に、東京から福岡に戻ることになるのだけれど、父は怒ってましたね。
「何で帰って来たんだ!早く東京に戻れ」と。
その時は、私を受け入れてくれないことが悲しかったけど、父も悲しい気持ちだったんでしょうね。
あれだけ突っ張っていた私が何の相談もなしに辞めると言っているわけですから…

その後、私が結婚しても、父は、相変わらず「まだ歌わないのか?」と言っていました。
子供が出来てからは、さすがに言わなくなったけど歌って欲しかったんだと思います。

長いお休みをしてしまったけど、活動を再開して初めてリリースしたCDを父に聴いてもらった時、泣きながら聴いてくれていました。
「お父さん! また歌うけんね!」
やっと、父が応援してくれていたことに素直に「ありがとう」と感謝することが出来たんです。

今、「偶然」を歌えること、セルフカバー出来たことが本当に嬉しいんです。
やっと、本当の「偶然」を歌えることが出来たと思うから。

父は、佐賀の施設で暮らしているのでコロナ禍で昨年から会えていないけど、
35周年の記念アルバムは、聴いて欲しい。

いつか、ライブにも招待しなきゃね。
それまで、元気でいてもらわないとね。

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<ここから、マリコラム NO.1スタートとなります。>

2021年4月20日に、記念アルバムの歌入れのレコーディングは、全て終わりました。
不安定な時世の中、歌い切れたことにほっとしています。

アルバムの収録曲は、当初の予定曲数よりも増えて、新曲「流星」を含めた、16曲になりました!

嬉し~い!

キャンプファイヤーでも沢山の方々に、ご支援をいただきました。皆様からのあたたかい応援に心から感謝しています。今、こうして歌えることは、支えていただいている皆様のおかげです。本当にありがとうございます。

アルバムリリースまで、もう少しお待たせ致しますが収録曲の想いをこれから一曲ずつ綴っていきたいと思います。リリース日を楽しみにしながら、一緒に時間を過ごして行きましょう!どうぞ、お付き合いくださいね。

それでは、先ずは、アルバムのオープニングを飾ってくれる、私にとって、かけがえのない曲となった、「また、歩きはじめましょう」のお話しです。

01. また、歩きはじめましょう


しばらくの間、音楽活動を休止していた私の手元にいただいた、第二期音楽活動の幕開けとなった楽曲です。
オリジナル楽曲、新曲をいただける有難い気持ちの感動を胸に、曲を聴きながら、歌詞を目でなぞりながら、当時の心境と重なって、涙が溢れていたことを昨日のことのように憶えています。 

作編曲家の山川恵津子さん、作詞家の松井五郎さん、お二人のユニットPIVOTによるプロデュース作品で、 2016年4月にCDリリースした、ミニアルバム「La Porte」に収録されています。

このCDリリースのチャンスをいただいたおかげで、本格的な音楽活動の再開となり、また歩きはじめることが出来ました。
今の真璃子の活動に繋がっています。

どうして、メジャーなお二人との接点が真璃子にあったのか不思議に思われる方もいらっしゃることでしょう。
お二人との「出会い」からお話しさせていただきますね。私の音楽活動を振り返ってみましょう。
デビュー曲「私星伝説」の編曲は、山川恵津子さん。
B面「遅咲きのラベンダー」の作詞は、松井五郎さん、編曲は、山川恵津子さんでした。
ファーストアルバム「真璃子」の収録曲の中でもお二人の作品を歌わせていただいています。
だからといって、まだ10代だった私は、残念なことに、一回りほどの年齢差のあるクリエイターのお二人と積極的にお話しできる器量は持ち合わせていませんでした。

ブランクのある私をどうしてプロデュースしていただけるようになったのかは、「お二人との再会」があったからです。

山川恵津子さんとFacebookで繋がることが出来て、お声をかけてくださったことから、松井五郎さんとの再会にも繋がって行きました。
有難い再会が出来たとは言っても、当時の私は地元福岡のLIVEハウスなどでアマチュアのメンバーとバンド形式でステージで歌い始めていた頃でプロとして再び、どうやって活動して行けばいいのかを模索していたんです。

そんな時、山川恵津子さんが福岡のご実家に帰省されているタイミングにお邪魔することが出来て、ご実家のピアノで一緒に歌を歌ってみることになったんです。
デビュー当時、山川さんにはレコーディングでコーラスもやっていただいていたので当時を想い出しながらの嬉しい気持ちと、
これはまさにオーディションだ!とドキドキに緊張していました。
もし、あの時、山川さんが首を傾げてしまっていたら、その後、LIVEをご一緒していただくことも松井さんに私のことをお話ししていただくこともなかったでしょう。
あの日、「一緒に声合わせて、歌ってみない?」と言ってくださった山川さんの優しさは忘れません。


35年前のデビュー時と再デビューとも言える活動再開時にも、
山川恵津子さんと松井五郎さんの作品を歌わせていただくことになった私は本当に幸運です。


そして、「また、歩きはじめましょう」が収録されているミニアルバム「La Porte」のリリースから6年目となる今年。
35周年記念CDアルバムの収録曲として、あらためて、レコーディングしました。
もう一度、歌入れをしたことには、とても大切な想いがあること、わかっていただけたと思います。

今回のレコーディングは、福岡のライブでいつも私を支えてくれているayunaさんにピアノ演奏をしていただきました。
山川恵津子さん、松井五郎さん、ayunaさんへのたくさんの感謝の気持ちを込めて歌いました。

たくさんの周りの方々と皆さんのあたたかい応援のおかげで、また、歩きはじめることが出来た、今の真璃子の想いを感じてください

02. 突然の電話


楽曲は、1993年、第一期音楽活動最後にリリースしたアルバム「I Love me」収録曲で、1994年に19thシングルとしてもリリースされた曲です。

私は作詞もしているですが、今回は、こ歌詞を描いた時エピソードを想い出してみたいと思います。


1993年、私が25歳になる年頃に時計針を戻してみましょう。


映画鑑賞が好きで、時間があると一人でよく映画館に行ったり、夜な夜なビデオを観たりしていました。(当時は、DVDではなくてビデオでしたよね 笑)
それは、子供頃から歌が好きだったように、ドラマや映画も好きだったこと延長でした。

どんなタイプ映画好きだったかというと、「ローマ休日」で、キュートでスレンダーなヘップバーンに憧れて、「裏窓」でグレース・ケリー気品ある佇まい美しさにうっとりして、「カサブランカ」イングリッド・バーグマン綺麗で繊細で表情豊か、凛とした中にも透き通る瞳強さに、ガッツリと心を奪われた、16歳頃。

古い映画女優さんたちは、綺麗なだけじゃなくて、人生てをかけて、そこに立っている空気感があって、とにかく格好良くて、めっちゃくちゃ輝いて見えました。

どうして映画話?と思われたかも知れませんが「突然電話」が出来たエピソードは、ある映画からインスピレーションを得ているんですよ。
2番歌詞にヒントがあります。

~もしも映画なら 恋が再び始まる予感 なんてこともありそうだけど~

分かりましたか?

メグ・ライアン主演映画「恋人たち予感」です。
男女に友情は成立するか?というテーマを、久しぶり再会をたびたび重ねることになる男女を通して描いていくロマンティックコメディー。
1989年に公開されて大ヒットしました。
あー!と、思い出した方声が聞こえてきそうです。(笑)

私は、こ映画ストーリーは勿論、キュートでチャーミングなメグ・ライアンが大好きになったんです。
メグ・ライアン出演作品で、1993年公開だった「めぐり逢えたら」もロマンティックで素敵でした。
どちら作品もノーラ・エフロンが脚本を手掛けていることに気づいた私は、
ノーラ・エフロン世界観にも憧れました。
私なんて足元にも及ばないけれど自分なりに共感した想いで作詞をしてみたい、と。


突然電話」は、昔好きだった、”あいつ”から突然電話ら物語は始まります。
二人が昔、付き合っていたか友達だったか、ぼんやりとしていて、どちらにも取れる内容になっています。

~あいつにふられた私は、もういないけど~
と、言っているけど、好きな気持ちを伝えてはいなかったかも知れないし、
”あいつ”に彼女が出来たことで、はじめて恋してたことに気づいかも。

どちらにしても再会することで二人恋が始まるかも知れない。
そんな期待感を取り入れたかった。

お互い探り合いながらランチからドライブに、、、

”私”素直じゃない所も綺麗に思われたい女心も、本当は、あ私に似ていた。(笑)
物語後半でやっと”私”内を解き放してあげることが出来は、

~ずっと一緒にいたかった あ気持ち ふいに思い出して ちょっと切なくなった~

最初は、こ部分構成は、なかったんですよ。
メロディに乗せて歌ってみると、私も素直になれた気がして嬉しかった。

映画「恋人たち予感」は、紆余曲折ありながらラストは、友情から愛情に変わっていきます。
突然電話」は、まだ再会したばかり。
まま時は止まっています。
二人、どうなるか気になりませんか?
私は、気になっています(笑)
どんな展開になるかは、私次第ですけどね(笑)
続編、描いて見ようかな、、、ふふふ、、、

そんな気になる展開もあって、活動再開した時からライブで歌って来ました。
年齢を重ねた今声で、今回記念アルバムで再び歌えたことが本当に嬉しい。

そして、皆さんと再会出来たことに感謝しています。

03. お嫁に行きたい

1988年に、ポニーキャニオン移籍第一弾として、リリースされた「お嫁に行きたい」は、THE ALFEEの高見沢俊彦さん作詞作曲で、人気ドラマだった「時間ですよ」シリーズの劇中歌でした。
私の代表曲となった、とても思い出深い一曲でもあります。

この曲への想いを綴るには、時間をかけて考えて一生懸命に割愛しても長文となってしまいました。
ゆっくり、お付き合いくださいね。

活動を再開して、ライブで歌わなかった時は、「お嫁に行きたい 聴きたかった。」と、コメントをいただくことが多く、あらためて皆さんの記憶に生きている楽曲なのだと感じています。

でも、まさか、もうすぐ53歳になる「真璃子」が35周年の記念アルバムに、セルフカバーする日が来るなんて、リリースした20歳の頃は、想像もしていなかったことで、もう一人の「私」は、嬉しさもあるけど不思議な気分でいます。

「お嫁に行きたい」のお話しをするには、ドラマ「時間ですよ たびたび」の撮影時の記憶の中の日記帳をめくっていくことにしましょう。

劇中歌として、私が歌う姿を懐かしく思い出してくださっている方もいらっしゃると思います。

ある時は、小料理屋さんで着物姿、ある時は、銭湯で出演者の工藤静香ちゃんと二人、
ウエディングドレス姿で歌ったり、主演の森光子さん、とんねるずさん、そして、かまやつひろしさん、地井武男さん、篠ひろ子さんなど出演者皆さんで一緒に歌っていただいた、何とも豪華な回もあったんですよ。
憶えていらっしゃいますか?

ドラマをご覧になっていた方は、お分かりだと思いますが、毎回のようにドタバタシーンがあリましたよね。
細かい段取りがあって、やり直し無しが当たり前でした。
凄いメンバーです。もし、私が動きを間違えたり、とちってしまってNGになったら申し訳ないじゃすまされない!と、かなりのプレッシャーでした。
歌のシーンの撮影もリハは勿論しましたが毎回一回でOKだったと記憶しています。
まるで、歌番組の生放送みたいに勢いよく撮影していました。
「お嫁に行きたい」を一緒に歌っていただけることが、そんなシーンが物語の中に刻まれることが、心から嬉しくて、とにかく楽しかった。
今、当時の映像を観ても本当に嬉しそうに歌っている私がいます。

「時間ですよ たびたび」での私の役柄は、小料理屋の娘役で店の主人でお父さん役は、由利徹さんでした。
劇中歌を歌う、まりちゃんとして、ただ、ただ、役柄に必死に取り組んでいたのですが…

今思うと、本当に凄い経験をさせていただいたことに、とても感謝しています。
素晴らしい役者さんたちの中に自分も役をいただけたこと、素晴らしい出演者の方々の、
生の演技を体感させていただいたことは、
生涯、大切な宝物です。

森光子さんをはじめ、出演者の皆さんに、待ち時間などに会話をしていただいたり、とても優しい方ばかりで、、、色んなことを思い出します。

でも、今回は、今まで話さなかった「お嫁に行きたい」のエピソードをお話ししなければと思いました。


それは、監督だった久世光彦さんとのエピソードです。

久世光彦監督は、皆さんも記憶に残る、数々の名ドラマを演出されている方ですが、
現場で、とても厳しい方としても有名でした。
皆さんのご想像通りに「時間ですよ ふたたび」のお手伝いのまりちゃん役の時から、かなり叱られました。
撮影の最終日ラストシーンの後、私が泣くか泣かないかを森光子さんと久世監督は、賭けをしていたと後に聞かされて、びっくりしたこともあります。
それには理由がありました。
後ほどお話ししますね。


劇中歌として「お嫁に行きたい」を歌うシーンは、出来上がっている音源を流すのではなく、
ドラマ用に、撮影所の録音スタジオで歌入れをして、久世監督のOKが出るまで何度か歌いました。
OKをいただいたテイクを聴いてみると、音程が悪いことがとても気になった私は、
「すみません!音程が悪いのでもう一度、歌わせていただけませんか?」と、トークバックで伝えたんですよ。
すると、久世監督からの喝が入りました。

「音程なんて、どうでもいいんだよ! 上手く歌おうと思ってることが違うんだよ!
気持ちだよ! わかってないなー」と。

ガビーンと胸に響きました。

普段から音程のことを音楽プロデューサーに、いつも指摘されていた私は、
音程のことばかり気にするようになっていたんですよね。
きちんと音程が取れることは、歌手として最低限の出来て当たり前のことが私は、出来てないわけですから。

でも、久世監督の一言に、とても恥ずかしくなって泣きそうになりました。
本当に私は何にもわかってないんだな…と。 かなり落ち込みました。
こんなに素晴らしいドラマの劇中で歌わせていただけるのに…

いい歌が歌えるようになりたいと、強く思った瞬間でもありました。

自分が出来ていないことが物凄く悔しかった…

いやいやぁ…
でも、久世監督に打診するなんて、生意気で可愛くないですよね。
全く! 身の程知らずで、ひどい話です。
今、思い出しても馬鹿だなって、ため息が出てしまう。
あまりにも恥ずかしいので、このエピソードは自分の胸にしまっておきたかったんですよ。

でも、月日を経て、再びレコーディングをする機会に恵まれたことは、
振り返るべき、有難いエピソードで、久世監督に本当に心から感謝しています。
皆さんにも、やっとお話しできました。

よかった…
初心忘るべからずですよね。

こうして「お嫁に行きたい」を通して、当時を振り返ってみると、
私は、自分の身の丈以上に、素晴らしい出会いに恵まれていたことに胸が熱くなります。

 

そして、お手伝いのまりちゃんがドラマ撮影のクランクアップで泣くか泣かないかの賭けをしていたという、森光子さんと久世監督の話の続きです。

「時間ですよ」は、皆さんもご存知のようにシリーズ化されているドラマで、
私世代は、1973年からの銭湯の従業員役の堺正章さん、お手伝い役の浅田美代子さんが出演されていたシリーズから記憶にある方が多いんじゃないかと思いますが1965年が最初の放送だったんです。
まだ私も生まれる前なので後に知ることとなるのですが、
森光子さんと久世光彦監督は、長期に渡りドラマの新人を育ててこられた訳です。

説明が長くなりましたが、何故、私が泣くか泣かないかの賭けになったかというと、
聞いた話なのですが、今までの歴代の新人は、ほとんど、監督が怖くて撮影中に泣いていたそうなんですよ。
撮影が中断したこともあったそうです。
昔の方が緊迫感が凄かったらしいのですが…

私は、撮影中は、一度も泣かなかった。

そして、あの決まり台詞の「おかみさーん時間ですよ~」と大きな声で叫ぶシーン。
そんな緊迫感の中で、新人は、なかなかOKが出ないこともあったそうですが私は、いつも一回でOKでした。
このシーンに関しては、いつも直ぐに撮り終わるので久世監督に嫌われてるのかなと本気で悩んだこともあったんですよ。
「真璃子に時間かけるのは、勿体ない」って思われてるんじゃないかと…
勘繰り過ぎですよね(笑)

自信がなかったんですよ。

まりちゃん役は、私でいいのか、と。

でも、周りにそんな心配しているように思われたくなくて、私なりに明るく取り繕っていました。
久世監督は、私をどんな風に捉えていらっしゃったのだろう…

森光子さんは「泣く」に、久世監督は「泣かない」に賭けていたそうです。

結果は、森光子さんの勝ちでした。

最後のシーンのOKの後、
「お疲れさまでーす!」のスタッフの声と共に、あの「時間ですよ」のテーマ曲が流れて来た瞬間、隣にいてくださった森光子さんの笑顔を見て、私は、くしゃくしゃに泣きながら、途切れ途切れに「ありがとうございました。」と言うのがやっとでした。
気が付くと、久世監督からの花束が目の前に飛び込んで来て「頑張ったな」と優しく笑いながら、頭を撫でてくれたんです。
もう、嘘みたいでした!
私の出演シーンの撮影時には、いつも怖くて、見たことなかった笑顔の久世監督がいました。
嬉しくて嬉しくて、何も言えずに号泣していました。
いつも自信がなくて心を開けなかった私だったけど、最後に久世監督の笑顔で、まりちゃん役をやり遂げた達成感をいただいたんです。


久世監督にも、また、「お嫁に行きたい」を聴いてほしかった…
また、お会いしたかったな…

今でも、皆さんの記憶の中に「お嫁に行きたい」が生きていることを久世監督にも伝えたかった。


「お嫁に行きたい」をセルフカバー出来て、本当によかった。

感謝を込めて。
真璃子

04.  不良少女にもなれなくて

1986年11月にリリースされた4thシングル。
バラエティ番組「コムサ・DE・とんねるず」のテーマ曲でした。

ファンの皆様からも人気の高い曲なのですが、80年代の隠れた名曲とも言われているそうです。
凄いことだ!!

活動再開してからの東京ライブのお客様との打ち上げを、歌謡曲BARスポットライトさんで開催した時、
「不良少女にもなれなくて」のイントロが流れてきたと思ったら、お客様全員で大合唱になった楽しいエピソードもあります。私のこと、そっち抜けで歌ってた~(笑)
あの時は、泣きそうなくらい嬉しかったな…
私も負けじと、一緒になって歌ってたけどね(笑)

また、みんなで歌いたいな…

リリースして約30年の時を経て、楽曲の力を実感することが出来るなんて、
歌うことを再開して本当によかったと感じた瞬間でもありました。

そして、今年、35周年記念アルバムにセルフカバー出来たことは
今、素直になれた自分へのご褒美のような気がしています。

どんな風に素直になれたのか…
皆さんにも聞いてほしいんです。


この曲が誕生した経緯を思い出しながら話していくことにしましょう。

楽曲は、まだ無い段階で、テレビのバラエティ番組「コムサ・DE・とんねるず」のタイアップが決まったのですが、番組スタッフに、ご挨拶も兼ねて、私もテーマ曲の打ち合わせの席に参加させていただきました。

正直に言うと、この番組に携われていた、
テリー伊藤さんからテーマ曲のイメージをお聞きしたことしか憶えていないんですよ。

どんなイメージだったと思いますか?

私の記憶がずれていたら、テリー伊藤さんにも申し訳ないのですが

「やんちゃな若者がバイクや車を走らせる時に流す曲」だったんです。

ざっくりの私の記憶ですが、分かるかな?
私の勝手なイメージは、キャロルやクールス、横浜銀蝿、アイドルだと中森明菜さんの曲が浮かんだんですよ。
私は、どんな曲になるのか、「真璃子」のイメージに無理があるんじゃないのか…
スタッフは、どんな考察をするのか、とても気になりました。

そして、番組のヒットを狙った制作スタッフの意図と、真璃子スタッフのヒット曲を世に出したい熱い想いから生まれたのが「不良少女にもなれなくて」でした。

作詞:阿木燿子さん、作曲:鈴木キサブローさん、編曲: 椎名和夫さん。
ヒットメーカーで豪華な作家の皆さんの作品で1986年2月にリリースされ、日本レコード大賞受賞曲となる、
中森明菜さんの「DESAIRE-情熱-」と同じ作家陣だったということになるのですが、
この時点では、まだ年末の賞レースの結末は、誰にも分からなかったこと。

作家陣が決まったと聞いて、
私は、「阿木燿子さん?!」と、スタッフに聞き直したことを憶えています。
子供の頃から憧れていた、山口百恵さんの作品をいくつも描かれている方ですから、嬉しい驚きでした。

そして、手元にいただいた歌詞のタイトルのインパクトの強さにスタッフが驚いてる中、私はスタッフが感じた驚きよりもきっと、さらに大きな別の強風が吹いたように気持ちがザワザワしていたんです。

「不良少女にもなれなくて」

こんな日が来るなんて…

活動を再開して、皆さんには、カミングアウトしましたが…なんて、いい歳して話すのも本当は、恥ずかしいんだけど。
デビュー前の少女時代の私は、やんちゃだったんですよ。
今だから笑って話せることでも、当時のアイドルで18歳だった私には、大問題でした。
少女時代のことをぶり返されたらどうしょう…ってね(笑)
ん? 笑い声が聞こえて来そうだけど(笑)

歌詞に出てくる
~授業に出ないあの娘 コスモス色のルージュ~
まさに、私もそんな中学生だった…

スタッフにも何も胸の内を話さないまま、スケジュールは進んでいきました。

いよいよ、レコーディングの日に。
スタジオには、何と!阿木燿子さんも来てくださったんですよ。
綺麗で華やかで優しい雰囲気の阿木燿子さんに、スタッフも皆んな緊張気味に見えました。
私は、緊張し過ぎて、ほとんど話せなかった。
山口百恵さんに憧れて歌手になったこと、阿木燿子さんの作品が好きなことも話したかったのに…
せっかくの二度とない機会だったのに、何でもっと話さなかったんだろう…と、
今でも昔の私にがっかりしてしまいます。
後悔してもしょうがないんだけど…

この曲を私が歌っていいのだろうか…と。
最初は、自分に、みんなにも嘘をついているようで歌うのが怖かったんです。
そんな、モヤモヤの胸中でも、時間は、待ってくれません。
私は、「真璃子」だ!
やんちゃだった私に知らん顔して、レコーディングに挑むことにしました。

でもね、不思議なことに、
レコーディングスタジオのマイクの前に立って、ヘッドホンからイントロが流れてきた瞬間、
私のモヤモヤ感が消えたんです。

まるで小説のような世界観の歌詞に、感情移入しようと思わなくても自然と言葉を語ってくれるようなメロ。
肩の力が抜けて伸び伸びと歌うことができたことが嬉しかった。
楽曲が素晴らしいということを体感したんだと思います。

私が不良少女だったとしても、不良少女にもなれなかったとしても実際は、どちらでも関係ないんだということ。

愛おしい「真璃子の歌」になったんです。

振り返ってみると、子供だったなーと思うけど、当時は必死に「真璃子」を演じていたんですよ。
地元の友達には、微妙な反応をされたけどね(笑)

え?
今ですか?
めっちゃ素で「真璃子」してます(笑)


また、この曲を歌えることが嬉しい。
歳を重ねるのも悪くないよね…
素直になれてよかった。

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07. あなたの海になりたい

08. SACHI 〜幸〜

09. ここ

10. あの日、月灯り

11. 街の灯り

12. 携帯電話のなかったあの頃

13. 流星

14. みんな夢の中

15. 愛したらどうするの?

16. Present